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『文藝春秋2月号』の梯久美子氏の記事については、最後に改めて感想を書くことにした。以下は、その記事を拝見する前に考えたことである。(()内は、文春2月号を読んでの補足)
さて、いよいよ栗林中将の最期の真相がどうだったのかというところになる。 ところが、堀江氏口述(3)と小田曹長の手紙の内容が一致しない。いずれも参謀によって殺されたという点は一致しているが、前者は中根参謀による斬首であり、後者は中根参謀と高石参謀長による射殺である。 この不一致が、どうもこの口述証言、また堀江氏が信用できないという気をおこさせる原因だろう。 大野芳氏の小田曹長への電話での確認の際、射殺という事実を小田氏が肯定しているとするなら、堀江氏の口述の「中根参謀による斬首」は、事実に反する虚言ということになる。 しかし、堀江氏はそもそも伝聞のそのまた伝聞を「私は事の真相をそのまま申し述べます」と堂々と述べるのだろうか。何か死の真相についての確証を持っていたのではないのだろうか。 ここで、『戦史叢書』の<3月25日夜半「兵団長以下敢闘中 高石大佐」の電報があった。>との記載に注目したい。資料索引をみるとこの根拠となっているのは、堀江参謀の回想とされている。ところが、『闘魂・硫黄島』や『小笠原兵団の最後』などでは、堀江氏は、3月23日の「父島のみなさん、さようなら」の生文電報が最後であったと繰り返し述べている。 つまり堀江氏は、防衛室庁防衛研修所戦史室に対しては、3月25日夜半の高石参謀長の電報の事実を述べているが、一般向けには3月23日の電報が最後の硫黄島からの電報だとしていることになる。 この3月25日の電報は、はたして「兵団長以下敢闘中 高石大佐」という電文だったのだろうか。何か栗林中将の最期について書かれていたものも含まれていたのではないだろうか、とつい考えてしまう。 それなら何故小元少佐の伝聞の伝聞として口述したのだろうか、遺族の気持ちを考えてか電文を公表するのを差し控える何かがあったのだろうか。もっとも、3月17日の時点で既に通信機をすべて破壊していたとしたら、3月23日の電報も堀江氏の虚言となってしまうが。そして、『硫黄島作戦について(その一)』の表紙には、小元少佐述と書かれてはいるが、たぶん小元少佐の口述証言は一切収載されていないのも不思議だ。(『文藝春秋2月号』に拠れば、『硫黄島作戦について』に小元少佐の反論が収載されており、堀江氏の口述内容を完全否定しているという。) それとも、堀江氏は「父島人肉事件」の裁判の証人ともなったのであるが、その際に栗林中将の後任となった立花中将らをかばう証言をしたはずで、その際に栗林中将に関しても何らかの証言をしたのかもしれないのと関係があるのかとも思ったりもした。何しろ立花少将の当時の上官は、硫黄島にいたとはいえ栗林中将であったのだから、もし栗林中将の命令で「父島人肉事件」が起きたとすれば、栗林中将も戦争犯罪人に価することとなるに違いない。 と、色々と私の想像が広がるのだが、納得ある答えを見つけてはいない。 戦史的には信頼に足ると思われる武市氏の『硫黄島(いおうとう)』では、栗林中将は単に戦死とされている。まあこれが穏当な表現である。戦傷による死も、自決も、味方によって殺されることも戦死に含まれるだろうから。 『小笠原兵団の最後』収載の鈴木栄之助氏の手記に拠ると、 「敵弾で戦死したと思われるのは30%程度、残りの7割の日本兵は次のような比率で死んだと思う。 6割 自殺(注射で殺してくれと頼んで楽にして貰ったものを含む) 1割 他殺(お前が捕虜になるなら殺すというもの) 一部 事故死(暴発死、対戦車訓練時の死等)」 ということのようだ。 3月18日以降、もはや硫黄島司令部は、高石参謀長、中根参謀の指揮下にあった。 射殺か斬首かいずれにせよ栗林中将の死は、この1割の他殺にあたると『硫黄島作戦について(その一)』には書かれていることになる。 (『文藝春秋2月号』では、梯氏は、小田曹長の手紙の<射殺>とは「自決を助けるための行為と理解するのが妥当」とされているが、『SAPIO10月25日号』で大野芳が書かれている小田曹長への電話での確認では、小田氏は「・・・『待てーっ』と始まったんです。部下が上官に向かっていう言葉ではありません。・・・」と語ったという。明らかに「自決を助けるための行為」ではない。)
by miki-hirate
| 2007-01-11 22:38
| 本の感想
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